昭和54年06月19日 朝の御理解
御理解 第4節
『此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。』
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった」。生神金光大神もまた天地金乃神様の御神徳を悟られ、天地金乃神様の御恩恵に浴され、おかげを受けられそのおかげがお話になっているのです。金光大神が受けられたおかげというのは、どこまでも天地金乃神様の限りないおかげの世界があったのです。金光教からおかげの世界を取り除いたらもうそれは金光教でないです。
昨日竹内先生が、大阪の今度の会に14日会に参加して、昨日帰って参りまして。色々報告を受けた中に、現代日本の屈指の宗教学者または宗教者、又それに関わる関係を持った偉い方々ばかリ、金光教御本部からは安田教監が出席された。結局「これからの宗教はどうあるべきか」をテーマの基に開かれたわけですけれど、結局今のような事ではダメだと。それはこうならなければならないというのですけれども、これを行けば間違いないという決め手はない。
とにかく今の宗教界から、マジック的宗教と言う様なものがある限り、本当の宗教は生まれないと、言う様な意味の話があったそうです。そういうお話ばかり、こんな話が高度な話として言っているのであります。言うならば不思議な、不思議な霊験の新たかな信心は、宗教でないかのように決め付けの傾向があると言う事です。昨日の月例祭に皆さんに聞いて頂きましたけれども、そいう意味で、愈々もって金光教が世に問われる、金光教とてもそういう傾向にある。
どういう信心をさしてもらったら人が助かるではなくて、どういう方法をもってすれば金光教が発展するかと、いう方法論になってしまっている。どういう信心を頂いたら、自分も助かり人も助かるか、と言う事ではない。自分も人も助かると言う事は、宗教学者に言わせるとマジック的ものだと言う。タネも仕掛けもないというのではない。ちゃんとそこには、助からなければならない一つの理念、論理というものがあって、いうなら助かる。合楽理念は助かりの理念だと言う様に。
5と5とたせば10になるんだ。5と5と掛ければ25になるんだ。いうなれば計算の上にたっての霊験なのである。だからマジックではない。結局体験でなくて、結局頭脳から入っていった、宗教を論ずるとそう言う事になるらしいんです。私共は分かりませんけれども。此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。天地金乃神のおげが受けられるようになったという、おかげはもう霊験ばっかりなんです。そして、話を残しておくという天地の道理、天地の事はこまやかに説かれた。
そこにいうならば人間の真の生き方というもの、天地との調和を計りながら、真の道がそこに説かれたのです。そしてその真の道を踏んでいく限り、霊験は嫌と言うてもついてくるのです。「死んでも命がありように」と言ったらおかしいようですが、金光教の信心はそうなんです。死んでもそれこそ生き生きとして霊の世界に生き抜かれる、あやふやな霊ではなくて、信心の真を持って私共霊の世界に入る限り。生き生きとしてその霊は生き通しに生きられる。
それを教祖金光大神は身をもって、証を立てておられると思われます。それこそ死んでも命があるのです、真の道の信心というのは。「使うて減らぬ金百両」そんな事あるかと宗教学者は一辺で決め付けるでしょう。ところがそれは合楽が手本見本を示しているようなものですから、いよいよ二代に、いよいよ大きくその実を上げていかなければならない。そういうささやかな小さい手本見本というものを、頂いている方達は、合楽には沢山おられると言う事です。
先日も原さんとこの宅祭りの時にも、聞いて頂いたように、原さんの所が金満家でもなければ、ご普請ができたという訳でもない。ただ一家をあげての信心であり、同時におかげで皆さんが子供さんに至るまで健康のおかげを頂いて、いうならばぼつぼつとその日暮らしをしておられるご家庭である。けれども、ここ三十年間の間、これがないから困ったという事がないという事実を実証してきておられるという事である。娘さんが三人一人息子の正一郎さん、無い命が助かったというのがご縁であった。
もう本当にマジックのような助かり方であった。けれどもそこで、ちゃんと種も仕掛けもあったと言う事。信心といういうなら信心の徳、力によって今日がある。おかげで借金があるわけでもない。というて貯金があるわけでもない。それでも三人の娘さんがお嫁入りする時にはちゃんとその時は、その時なりにそれなりにそれなりのものではあるけれども。タンス長持ち持たせてやられるような、おかげも受けてこられた。一人息子が嫁ごをもらう時にもちゃんと一通りの事は出来た。
べつに借金しなかった。私はそういう信心を言うならば、「使うて減らぬ金百両」だと思います。だから本当いうたら不安はいらんのだ。心配はいらんのだ。ただもったいない、例えば、お粥さんでも頂けたらありがたいじゃないかと家族中有り難いの一色である。喜びの一色である。その喜びが本当になり、大きくなっていく豊かになっていくに従って、いうならば使うて減らぬ金百両から、「使うて減らぬ金千両」と言う事になるでしょう。文男先生がここのご造営の時におかげを頂いた。
先日の十三日会の時にその時の事を話していました。文男先生とは兄弟以上のお付き合いをさせて頂いているが、ご造営が始まる時に二人で話し合った。どうでもこうでも、その時分は正義先生も家わかれしたばかりで。何も否実力も無かったですけれども神様にお願いをして、二人で願いが願い通りのおかげを受けた。そしてその暁にです、その当時の百万円ですから、今の金で1千万円と言う所ではないでしょうか。「以来百万の金だけには不自由しない」と、文男先生はそれこそ豪語していますよねえ。
人の前ではっきりとそれが言えれる。正義先生においても然り。ただ繁盛するばっかり。正義先生の場合なんか、それこそ1千万の金には不自由しません。と言う位のおかげは頂いています。ですからそれが愈々大きく豊かに育ってゆくという所に信心が、天地金乃神の限りないおかげが受けられるようになったというのは、そういうおかげを頂き続ける事ですから。だからマジックではないです。
それは天地の願いであり、神様のどうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよというのは。「死んでも命がありますように」「使うて減らぬ金百両」である。それこそいつもが春のような、暑い寒いを感じんで済むほどしの、おかげを受けられる世界が金光大神の、私は信心の世界だとこう思うです。だから金光教から言うなら、方法論でなくて愈々助かりの道というものが広がっていかない限り、今はっきりというならば、樹立していっておるのは、合楽理念だと思うです。
合楽理念をもとにしての生き方に成ってくりゃぁ、人間の幸せの条件の全てが足ろうて育っていく。今日ある方の、お願いをさせて、ご造営に対するある大きな願いを持っておられる方なんですけれども。その方の事をお願いさせて頂きよったら、鬼がねえ、何ですかねえあれ、野球ならバット木刀を持って、こうやって振り回している所を頂いたんです。鬼と言う事は力と言う事だと思います。それにはどうしても金棒を持たせなければ、鬼に金棒と言う事にはならんのです。
力だけが強かっても出来んです。いわゆる鬼に金棒です。おかげを頂きたいと言っても、持っているものが木刀ぐらいでは、力があっても金の力、金棒と言う事はお金の力と今日は感じた。だからこの人に金棒を持たしたら素晴らしいだろうなあと思うた。ね。それとこれとが足ろわにゃあいけん。神様を信じる力というならば、その信じる力に和の心が育たなければいけんです。
神様を信じて疑わないとそれに、愈々自分の心が「和」今度壮年会の大会テーマが「真の和と信」。「しん」とは信と頂いた。「わ」は和賀心の和、「しん」は信と頂いた。人偏の「信」、と言う事は「真の和とは、真の信心とは」と言う事になると思うのです。今の宗教者が言っているのは、「これが真だ、これが信心だ」と言っているけども、いうならば、その真の信心なら、真のおかげが伴なわなければ、それは真のおかげではない。真の和というのは普通で言う平和の和とは違う。
字は同じでも、教祖金光大神が「おかげは和賀心にあり」と仰った和とは違う。不滅のもの否不壊のもの壊れぬもの、信心でいう和というのは。和らぎ賀こぶ心というものが力と同時に育っていかなければならない。言うなら確かに「和」と「信」である。それが本当なものであれば。私は豊かな世界に住んでいるから、豊かなものにも金にも不自由しませんと言えれるような、おかげでなければいけないと言う事である。
私は心で信心しよるけん心が豊かで、本当にいつも和賀心で「有り難い、有り難い」と自己満足の和であったり、信であったりしたらつまらん。本当のものであったら、私は和の世界に住んでおるから、豊かな心の世界に住んでいるから、豊かな物にも金にも、不自由しませんという実証があって。あなたの和は本当だと神は言う事になるのです。私は信心していますと言っても神様を信ずるというならば、れこそ「神は信じる者を信ずる」と仰せられる。神様に信じられると言う事は御神徳である。
その御神徳を受けずして如何に信心と言うた所で、私に言わせれば、本当の意味において、宗教革命がなされなければ駄目だなあと。過去で言うてきた宗教はもうダメだ。金光教の信心の内容に、いうなら合楽理念があったら、その合楽理念に基ずく生き方、何々は合楽理念を持ってする他はない。と言う所まで一つお互いの信心に密着した、いうならば愈々合楽理念の実験実証者としての実を上げてゆく。
それも愈々豊かに大きくなってゆく。信心の力を頂いても、言うなら金棒が伴う鬼に金棒と言う事は、間違いない上にも間違いないと言う事でしょうね。もう大丈夫だとあなたにこれを持たせるならば、鬼に金棒だと申しましょう。だからどちらかが欠けておる。それがあいまっての力になってゆく。私は今日「此方金光大神あって天地金乃神のおかげが受けられるようになった。」と言う所だけを聞いて頂いたつもりです。
「天地金乃神のおかげが受けられるようになった」といわれる教祖金光大神のおかげとはど言う事であったか、一見脇から見たらマジックとしか思われないような、鮮やかなおかげを受けられたけれども。そこにはチャンと種も仕掛けもあっての事である。おかげの頂けるのは当然という受け物、内容が出来てからの事である。そこの所を言わずに御利益を頂くと言う事は、マジック教と言う様な考え方を一掃して。
昨日の御理解の中に、戎浦さんの霊祭のお話をチヨットさして頂いたんですけど。「花で勝負する」と言う事につい、私共はいうならば宗教とはどこまでも、天地金乃神様が示された事を間違いなく、示してゆく教えてゆくのが本当の宗教だと、いう風に私は申します。教祖金光大神は、天地金乃神様からおかげを受けられた事を、私共に伝えておって下さるのである。真の宗教というなら、金光教というより他ないです。
しかも本当のものを、嘘のものにしてしまうと言う様な風なら。そうならないように、生きたものを生き生きとして生かし続ける事が出来る理念が。私合楽理念だと思うです。合楽の信心だと思うです。どんなに喜びというても、喜びの花と言うてもその喜びの花に、それにおかげが伴うてこなければそれは本当の花でない。「花で勝負する」と言う事は自分の言うならば、 信の心和らいだ心、その心が愈々本当のものになってくる時にそれに伴う所のおかげ、これが言うならばおかげの花である。
そのおかげを持って勝負していこう。しかもその花があだ花に終らずに、実とも種ともならして頂いて、あの世にも持って行かれ、この世にも残していける花でなからなければならない。いうならば「花で勝負をする」と言う事は「おかげで勝負する」と言ってもいいでしょう。おかげの元というのは、宗教学者に言わせると、マジックのように見えるかもしれません。けれどもそうではない。
心の花に伴う所の霊験であり、おかげなのですから。天地金乃神のおかげが受けられるようになった。金光大神のおかげで、おかげが頂けれ助かる事が出来るようになった。双方からの恩人というように言っておられます。それほどまでに言われておられる金光大神はどうかというとその天地金乃神のおかげを限りなく頂かれてこられた御方である。その実証者である。金光大神は決して魔術師ではなかったと言う事でございます。
どうぞ。